Mijn Feyenoord

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宮間あやは何を言いたいのか

日経新聞でのコラムで宮間あやが「人間くささこそ醍醐味」という文章を書いて、VARにも触れている。

 

出だし
「どうもサッカーのルールは守る側へ不利に変遷している気がする。ハンドやファウルの基準、オフサイド判定」

 

オフサイド判定が守る側に不利に変遷しているのは事実。しかしハンド(handsbal)やファールの基準が果たしてそうかは甚だ疑問。こういう主張はあまり聞いたことが無い。

 

コラムはそこから全員守備全員攻撃というチームコンセプトの中での葛藤があったことに触れ、「得点から守備が始まることは強調されていいのでは」という文で一旦締めくくられる。「強調されていいのでは」というのがどこに向けての訴えなのかは曖昧でよく分からないが、文章の流れからすると守備側がボールを奪いにくくなっている、と言いたいように感じられる。以前はボールを取れた競り合いがファールを取られるようになったということだろうか。この辺りは個人の経験、感覚的な部分が根拠のようなので実際どういうルール改正でそう感じるようになったかは読む側には分からない。

 

VAR
「VARがあったら2011年ワールドカップ優勝はなかっただろう。体力も力も劣る私たちはファールすれすれで奮闘し・・・・(略)。そんなギリギリの物語がVARでは一刀両断されて失われていくような」

 

ここの部分もよく分からない。「ファールすれすれ」というのは「ぎりぎりファールでは無いプレー」というのが普通の意味。それがVARがいるとできなくなると言いたいのだろうか?仮に「ファールすれすれ」が「審判によってはファールも取るグレーゾーンのプレー」という意味だとしても、VARがそれに介入できないのは言うまでも無い。

 

心理戦
「映像では見えにくいところで選手は心理戦や駆け引きもする」とそこからピッチ上での心理面の話に広がり、「人間くさいところがサッカーの醍醐味なのだ」と一旦結論に達するが、ここまでだとVARを含むルール面との話の繋がりは曖昧。もしかしたらVARがいることで、容認される「ファールすれすれ」のプレーをする勇気を持てなくなる、と言いたいのかもしれない。

 

物語
「1つのパス、ファウルにも複雑なストーリーがあり、全てが連なりとして1つの試合を成しているわけで、サッカーにおいて切り取られるべきものはない。VARがどこか腑に落ちないのは、それを切り取って白黒を付けるからだろう。(略)「白」だけを正しいものとして他を排除するのは、人が許容できる範囲をどんどん狭めはしないだろうか」

 

再びVARについて話が戻り、やはり宮間はVARについて学んでおらず、印象論で語っていることが分かる。そもそも前半部分の「切り取り」が具体的に何を言っているのかがよく分からないが、後半部分は『グレーゾーンの容認』という大原則の存在を知らないで書いているのが明らか。

 

締め
「物事を物事のまま見ようとすることが、相手を受け入れる力も伸ばすと思う。そしてその方が人間味ある感動に出会える」

 

最後はさらに理解が難しい。その前に試合を1つのストーリィとして繋がりで見るべきと主張していたように思えたが、最後は「物事を物事のまま見るべき」と言っている。果たしてこれは同じ意味の言い換えなのだろうか?VARがいることで「物事を物事のまま見ようとする」ことができなくなるという根拠は何一つ示されていない。

 

感想
宮間は1年以上ピッチから離れているようで、判定の基準やVARについてなど多くの部分を印象に基づいて書いているように思える。実際に訴えるべきは、VARがいても怖れずに「ファールすれすれ」のプレーをすることだろう。宮間が言う心理面での駆け引きで相手を苛立たせ、優位に立つにはそれこそが必要不可欠だ。