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ゲズブユク「私は幼い頃から調整者だった」

トップ主審 セルダル・ゲズブユク(33)は若者たちのモチベーションのために自らの人生を語る。彼は社会的な悪に対して何かしたいと望んでいる。そしてビデオ審判ありで試合を吹くことをどう考えているか?

 

セルダル・ゲズブユクはノーマルで社会的価値観を尊ぶ人間だ。このトップ主審は警察車両が走っていると父親が道端で堅苦しく立ち止まるのをよく覚えているという。「今でもよく見る。立てられる中指、叩かれる救急車隊員、売春婦のために組織された女性教師たち。『これは何だ?』と思うよ」

 

ゲズブユクが働くフットボールスタディオンも市民の模範では無い。「時々私のルーツについての声は聞こえる。それをノーマルと思うことはできない。人種差別的文章、猿まね声は私にとって絶対に許せないもの。私は選手たちのためにそれを取り除いている。試合前にはロッカールームでスタディオン・ディレクター、警察と一緒に安全面についてのミーティングを行っているんだ。私の意見は非常に明確。人種差別は容認しない。その場合には即座にピッチを出る」

 

目はますます鋭く
ハーレムでトルコの両親の間に生まれたゲズブユクのそうした意識は根拠が無いことでは無い。優しく、穏やかな男は、社会的な悪事が起こるやほとんど激怒の女神 フーリーのようになる。彼の美しい褐色の瞳はますます鋭くなっている。彼は声を上げるだけでは無く、行動も起こす。彼の組織 Sport-Connecting-Usと共に彼は自分の人生を語り、モチベーションを与え、『普通のことをしていればチャンスは掴める』というメッセージを送るために学校に通っている。

 

彼自身12歳、13歳、14歳、15歳の学生だった頃、彼は毎晩ハーレムのパルクワイクで自分と同じような少年たちと『ケージ』の中でフットボールをしていた。「パルクワイクは貧困地区では無かったが、移民が多く住んでいた」。そこで彼はトップに昇ろうと望んでいた。フットボーラーとしてではなく、審判として。「その名前では決して成功しないと言われたよ」

 

しかし成功した。「私は隅っこに座り、自己憐憫の気持ちでいっぱいの『自分にはチャンスが無い』と考える少年たちとは上手く行かなかった。私も偏見や挫折は経験したよ。それにどうするか?私が学校で話しているのは『私も経験した、君らも経験している、しかし隅っこで泣くんじゃない。誰かの手が君を掴んでくれるわけじゃないんだから』ということ」

 

オランダは素晴らしい国
「オランダで何かを成し遂げたいと思えば、人々はそれを見て、助けてくれる。しかしやるのは自分自身でしかない。オランダは素晴らしい国。ここはしっかり物事が整備されている。幸せになれ、誇りを感じろ。私が言えるのはそれだ。私は国外で多くの試合を吹いているが、どこに行っても『オランダの我々の方が上手くやっている』と思う」

 

彼が行った授業の一つにはVVDの党首 マルク・ルッテも出席した。「あれは素晴らしかったね」。ゲズブユクは2014年に司法安全省、スポーツ省、各自治体によって設立された"Alleen jij bepaalt"(決めるのは誰でも無く君)のアンバサダーを務めており、彼の前任者は当時のVVD党首 イヴォ・オプステルテンだった。

 

そのプランは犯罪に染まる危険のある若者たちに向けられており、それを防ぐため、彼らは例えばスポーツクラブなどを連絡を取り合っている。「その一つで私は学校に行っているんだ。自分の話をするためにワークを開催することもある」

 

ファン・ハネヘムの賞讃
彼には両親がいた。「『おまえはここで生まれたのだから、ステップを踏まなければいけない』と両親は言っていた」。そして彼は元トップ・フットボーラー ヴィレム・ファン・ハネヘムに出会った。若きセルダルはDSK のユースの試合で笛を吹き、そこではファン・ハネヘムの2人の息子もプレーしていた。試合終了後にファン・ハネヘムは彼の方を叩き、彼は選手たちの両親。クラブの人々からも自分が求めていた賞讃を貰ったのだ。

 

「彼は『とても良かったよ』と言ってくれた。その時に『何かを上手くやれば何かを成し遂げることができるのだから、それを目指そう』と分かったんだ。私はその後数年自分でプレーするのと笛を吹くことを兼ね続けた。フットボールはかなり上手かったが、試合を導くことをしたくなり、その部分が伸びたんだ」。ゲズブユクにとってヴィムおじさんことファン・ハネヘムとの絆はその後も温かく残り続けた。

 

「私は幼い頃から調整者だった。7,8人のグループでリーダーのジョスがフットボールファンで、いつも私の所にやって来ていた。『セルダル、遊びに行くぞ、準備してくれ』。私は厚紙でイエローカードとレッドカードを作ったんだ。ケージの中でフットボールをしに行く前に、私はアパートを巡って子供たちに声を掛けて回った。『マフメト、どのくらい遅れる?ハッサン、一緒に来るだろ?』とね。ケージで私は笛も吹いていた。時に乱闘になるんだ。その時には私はみんなを引き離した。そうやって反抗に対応するのが面白いと思ったんだ」

 

16歳から彼は審判ライセンス取得コースを受講。ゲズブユクは徐々に上にレベルで笛を吹けるようになった。企業・コマーシャル運営のMBO訓練を行う学校のディレクターと出会い、平日に試合のある週は午後に数時間の休みを得る事ができた。「スクーターで行った場所を書き出すと本を1冊書けるよ。もっと遠くに行く時は父に運んで貰ったり電車に乗った。笛を吹くのを断りたくなかったんだ」

 

22歳でプロフットボールにデビュー
2008年3月に彼は22歳でプロフットボール、上から2番目のレベルにデビューした。2年後にはエールディヴィジで初めて笛を吹いた。2012年には初の欧州戦。この年齢でその全てに到達したオランダ人審判は他にいない。現時点で彼はプロフットボールで約300試合、欧州戦と代表戦数10試合で笛を吹いている。エールディヴィジの最優秀主審には2度選ばれた。

 

ゲズブユクはUEFAが26人の審判で構成する欧州エリートに上り詰めることを望んでいる。現在その中にはビヨルン・カイパースとデニー・マッケリーというオランダ人が含まれており、彼らは欧州のクラブのためにトップ・コンペティション CLで笛を吹いている。ゲズブユクは現在UEFAのグループ1におり、CLにデビューすることも可能だ。「テストとしてね。来シーズンはそうなることを願っている」

 

彼には野望がある。「いつか3度目の最優秀主審に選ばれたい。そうすれば記録になるからね。私は33歳。プロフットボールでの試合数記録を達成できるはずだ。それが目標。そしてCLで笛を吹きたい。母のためにもね。母と約束してあるんだ。母と話した最後の内容の一つがそれだった」

 

両親は南トルコのAdana出身
彼の母は2005年クリスマスの夜に心臓発作にとって50歳で無くなった。彼の成功を母は体験できなかったのだ。彼女は約30歳で父親が働き、生活していたハーレムに来た。それから間もなく彼女の夫も。彼らはトルコ南部の大都市 Adanaで知り合った。このカップルはハーレムとアムステルダムの間に位置するバドフーフェンドルプにある電子機器会社 Sonyの流通部門で働き、2人の男の子をもうけた。彼らの仕事は安全だった、とゲズブユクは語る。

 

「母が亡くなった後、父はまだ数年ここにいた。私が結婚した時、父は『息子が立派になったから私は戻る』と言ったんだ。それが父と母がずっと予定していたことだった。2人は本当に私たちの味方だった。両親が良くしてくれて、とても助けられた」

 

この数週間ゲズブユクはスポットライトの下にいる。ウィンターストップ中の1月半ばのこのインタビューの前には、彼は同僚たちとのトレーニングキャンプを終えたところだった。そこではVARの評価も行われた。

 

ビデオ・アシスタント・レフェリーは今シーズン エールディヴィジにおいて新しい存在。スタジオからVARはいくつものスクリーンを監視し、ピッチ上の主審と直接コンタクトを取って、誤審に気づけば介入する。その場合には主審は自分が見間違えた可能性があるシーンをピッチサイドのスクリーンで見に行かなければいけない。そして主審は判定を覆すことも覆さないこともできる。

 

VARはパラシュート
シーズン前半戦でゲズブユクがVARにサイドラインに呼ばれたのは『幸運にも』-彼はそう言う-1回だけで、ウィンターストップ明け直後にもう1回。そして彼は激しい批判を受けている。「私はミスはしたくないし、できればサイドラインに行きたくは無い」

 

「ハッキリさせておくけれど、私は100%VAR制度を支持している。これはプレーをよりフェアにするもの。しかし私は『VARは私を救えるパラシュート以上のモノでは無い』という考えで試合に望んでいるんだ。主審たちは待つことが笛、判定を下すことにより不安になっている。私はその苦労はしていない。私は判定を行う。正しかったでも間違っていたでも言って貰って構わない」

 

昨年12月のVVV-フローニゲンで彼はスクープになった。映像を見た後に彼はVVVの選手へのレッドカードを引っ込めてイエローカードを出した。何が彼をそうさせたのかは彼にも分からない。試合後にレッドカードが正しかったということが判明した。

 

「その選手はすでにピッチを去っていた。レッドカードを受け入れていたんだ。しかしVARが『セルダル、見に行ってくれ』と言ってきた。最初は『何だって』と思ったよ。しかし言われればいかなければならない、それがプロトコル。頭の中であらゆる事が駆け巡った。スタディオン全体が見ている。同僚が映像を見せ、あらゆる視点から見せてくれる。何か確信しているのでなければ早々起きないことだとね」

 

「弁解は無い、しかしスクリーンが見えるように私はしゃがみ込まなければいけなかったんだ。スタンド前のポールが立っていて、歓声も聞こえる。観客から見える場所でなければいけない、それもプロトコル。私にとって初めのことだった、学びの瞬間だ。いまではスクリーンは十分高い位置にないといけないと少なくとも確信している」

 

ピッチ上での2,3分は永遠のよう
彼自身がVARを務めることもある。「その場合は私はキャビンの中で汗びっしょりになる。VARとしてもミスはしたくないからね。ピッチ所の同僚のフィーリングに寄り添い、彼がなるべく早くプレーを再開できるようにしてあげたいが、全ての映像をよく見ないと行けない。それには2,3分掛かることもあり得る。ピッチ上ではそれは永遠のようなもの」

 

彼はボスであるKNVBと約束している。笛を吹く週末はVARも務め、笛を吹く必要が無ければVARの仕事も無い。後者の場合の週末には彼は若い家族のために全ての時間を使いたいと望んでいる。同じくトルコ出身オランダ人の両親の間に生まれた妻と、彼は2歳半の息子とを間もなく1歳になる娘をもうけた。国際試合のために平日に出かけることもしばしばだ。

 

ビザを手配する自分の会社
ゲズブユクは忙しい。審判として上質のサンドウィッチのお金を稼ぐが、彼の生計はそれではない。彼はビザを手配するTraveldocs.nl/VISA4ALLという自分の会社を持っている。この企業はトルコ系オランダ人起業家 アティライ・ウスルのツアー会社 Corendonと2014年に契約を結んだことで急成長。それ以来Corendonのためにビザを手配している。

 

「アティライの秘書に数回電話したけれど、話が通らなかったんだ。それでCorendonのメイン事務所まで車で行った。パンを入れた弁当箱と冷えたチョコレートミルクを持ってね。2日目の終わりにようやくアティライに会えた。彼の方に走って行って『チャンスをください』と言ったんだ」

 

「彼は私にとって初めての大きな取引先だった。最初はトルコへのビザだけだったが、いまは数10カ国。ロシア、シナなどもね。TUIやSunwebのような旅行会社も取引先になり、毎年25万ユーロ以上の取り引きをしている。近い内にトルコ航空と話をする。彼らを納得させるためにね。私の妻もこの会社のためにたくさん貢献してくれている。彼女も起業家なんだ。私のマネージャー ベンルクスはライバル会社から引き抜いた。私がいなくならなければならない時も、安心して会社を彼らに任せている」

 

トルコ協会からの要請
2016年夏に彼はトルコの協会から国に来て笛を吹くように求められた。彼は言葉を話せ、パスポートも持っている。「お金については話し合わなかったけれど、それは問題じゃなかった。お金のためにする必要は私には無いんだ。傲慢になりたくはないが、私は自立している。そのために一生懸命働いてきたからね。トルコ協会には今回はタイミングが合わなかったけれど、チャンスがあったら次のチャンスをモノにしたいと伝えた」

 

彼には自分の家族、自分の会社があり、彼は大きな感謝の気持ちを持っている。「自分が試合で笛を吹けることがとても嬉しいし、毎日神に感謝している。フェイエノールトPSVの対戦も担当したし、ヨハン・クライフ・スハールや他の大きな試合も2度やった」

 

彼のリストに抜けているのはアヤックスフェイエノールトの対戦であるデ・エヒテ・クラシーケルだ。TOTO KNVBベーカーのフィナーレでもまだ吹いていない。しかしこの2つの試合のうちのどちらかを今シーズンまだ吹ける可能性はある。ゲズブユクは時に自分が忍耐強くないと認める。「ああ、大きな試合でもっと吹きたい。自分自身主審だった私のコーチ ハンス・レイフワルトには『セルダル、君は33歳、目標に達成する時間はいくらでもある』と言われるよ。妻にも時々言われる」

 

フットボール界は全てが彼の世界では無い。ノーマルさと社会的価値観という面では時にかけ離れている。「それでも私は試合が好き。笛を吹き続け、CLの夢を達成する私の野望を、母との約束を果たしたい。その時に自分は成功したと心から確信できるだろう」

 

Ron Kosterman

 

https://www.elsevierweekblad.nl/nederland/achtergrond/2019/01/gozubuyuk-al-vroeg-een-regelaartje-161765w/