Mijn Feyenoord

Feyenoordを中心にNederlands voetbalを追いかける

前半戦事件簿 [020、トゥエンテ、ADO]

020: ビロード革命終焉

今シーズンもいつもどおりメディアを賑わわせたアヤックスのお家騒動だが、いつもと違ったのは間接的ではあるが『クライフの敗北』という画期的な結果に終わったことだろう。2010年にデニー・ブリントらがルイ・ファン・ハールのジェネラル・ディレクター招聘に動いたことを切っ掛けにクラブは真っ二つに割れ、RvCが総辞職。裁判の末にブリント派が敗北。フットボール・クラブの運営はフットボールを知る元選手たちが行うべきと主張するクライフの理念のもと、そのプランを実行する一連の動きはビロード革命と呼ばれた。フットボール面でその中心を担うテクニカル・ハートの構成は監督 フランク・デ・ブール、アシスタント デニス・ベルフカンプ、テクニカル・ディレクター マルク・オーフェルマルス、そして育成責任者 ヴィム・ヨンク。ユースに元トップ選手たちとフットボール以外の専門家も多く迎え、ユースからトップチームを通してクライフの目指すフットボール哲学を実践し、トップ選手を買うのではなく育てることで再び欧州のトップを目指す、という大きな目標を掲げた。

 

しかしデ・ブールのもとでエールディヴィジ4連覇を達成したものの、チームのクオリティはむしろ落ちる一方で欧州での競争力はさらに低下。オーフェルマルスの補強も人選、移籍金共に疑問の山で多くの批判を浴びた。プレーの中身でもデ・ブールとベルフカンプが行っているのはダイレクトに奥行きを目指すクライフのそれではなく、横に多くボールを動かしてゲームをコントロールするファン・ハールのそれだった。その結果、クライフ支持派のヨンクはかなり早い段階でテクニカル・ハートの定期ミーティングに姿を見せなくなり、ユースとトップチームの一本化は絵に描いた餅状態に。クライフは繰り返しDe Telegraafのコラムでアヤックスの体制批判を繰り返したが、結局フロントがヨンク解任を決めたことで「アヤックスの人間で私に定期的に連絡をくれるのはヨンクだけだ」と嘆いていたクライフもアドバイザーを辞任。ヨンクと共に主だったユース・コーチたちもデ・トゥーコムストを去り、12月のクラブ会員総会で324名満場一致(!)で現運営体制の信認を決める素晴らしき『北朝鮮デモクラシー』でビロード革命の終焉が決まった。

 

アヤックスの人間たちはいまだに「クライフ・プランが我々の哲学であることに変わりは無い」と語っているが、今後はおそらくクライフの哲学とファン・ハールの哲学との折衷という方向に進むだろう。ちなみにアヤックスの内紛で初めての敗北を喫しても一度は「もうこれで終わり」と口にたクライフ自身は数週間後には「ドアはいつでもオープン」と未練を露わにしているが、影響力が大きく減少したのは間違いない。

 

FC トゥエンテ:悲劇的50周年

クラブ創設50周年目はクラブの歴史上もっとも悲惨な1年に。財政問題による勝ち点剥奪、オーナー兼会長 ヨープ・ムンステルマンが裏口から去ったのが昨シーズンの後半。そして今シーズンに入ると8月末にはアルフレッド・シュロイデルが解任され、その後アシスタントのルネ・ハーケが後任に就くもピッチ上ではエールディヴィジのレベルに達していない選手たちが悲劇的な試合を繰り返した。

 

そして追い打ちをかけるように起きた新たな問題が投資グループ Doyen Sportの秘密文書の流出事件。トゥエンテが選手獲得にDoyenの資金を得ていたのは以前から知られており、FIFAが禁止した第3グループの選手所有に当たるのではと、かねてから疑問視されていた。ムンステルマンはそのケースには当たらないと否定したが、流出したムンステルマンと後任のアルド・ファン・デル・ラーンが秘密裏にDoyenとかわした契約書にはDoyenがクラブの移籍ポリシーにかなりの影響を与えていたことがハッキリと現れていた。この流出から間もなくしてファン・デル・ラーンもまた逃げるように辞任。プロ・ライセンス剥奪の怖れが現実的なものとなったトゥエンテだが、ライセンス委員会の処分は『3年間の欧州戦参加禁止と45.250ユーロ罰金』と驚くほど軽いもで、ライセンスは5月1日までに独立の調査の協力し、クラブの運営モデルを根本的に変えることを条件に保持が認められ、まだKNVB検察とFIFAから処分が下される可能性はあるものの、例のごとくKNVBが嘲笑を買う結果に。さらにトゥエンテが前半戦最後の試合を始めた直後にエンスヘデ市議会が3,200万ユーロのトゥエンテ救済案を可決。新たなローンを組めるようになったことで財政破綻の危機も避けられた。

 

財政破綻の危機を避けるべき戦っていたトゥエンテをムンステルマンが買い取ったのは2004年。オーナー兼会長という絶対的権力者のもとで大きく成長を遂げたクラブはエンスヘデの企業家たちの支援も得て年間売上を1,000万ユーロから4,200万ユーロへと大きく増やし、2010年にクラブ初のランズカンピューンに。定期的に欧州で戦い、トラディツォネール・トップ3に食い込む新たなトップクラブの誕生を確信させるに相応しい結果を見せていたと思われた。しかし最初の綻びは2011年7月、2人が死亡、14人が負傷したデ・フロールシュ・フェステの第2リング拡張工事中の崩落事件だろう。財政面でも無責任なリスクを負い続けて負債を増やす結果に。2013年にはDoyenと合意。2014年4月には2012/2013シーズンの収支報告に翌年分のTV放映権料を計上するトリックを指摘されてKNVBから35,000ユーロの罰金を受ける事件もあった。同年5月にはカテゴリー1へ転落。勝ち点減点とライセンス剥奪の危機も出てきたことでムンステルマンへの批判が高まり、かつての名宰相のイメージは地に落ちた。

 

トゥエンテは前半戦を終えてダントツのヘッケンスライター デ・フラーフスハップと8pts差の17位。この冬のツィエク、ターピアら数少ないエールディヴィジ・レベルの選手の売却は決定的で、補強はフリーとレンタルに限られており、例えそれが上手くいったとしても後半戦も残留争いを強いられるだろう。自治体は事実上降格して数年かけての再建プランをクラブに強いているが、果たして…

 

ADOデン・ハーグ:シネーセ・ソープ

シナ人オーナー ハイ・ワング(Hui Wang)の手に渡って初めて迎えるシーズンは予想以上のごたごた続きに。夏の移籍市場でスハーケン、ハーフェナール、ドゥプランの強力3トップを形成し、今シーズンのサプライズ候補としてシーズンに入るも、開始数週間でワングがシナ人コーチ ガオ・ホンボ(Gao Hongbo)をアシスタントに迎えるという報道が出て一気にドタバタ劇に。ジェネラル・ディレクター ヤン・ヴィレム・ヴィフトも明確な説明ができずに明らかにワングの主導で一方的に話が進んだが、結局ガオの労働ビザが取れなかったことでピッチに立つことは無く、「オランダ・フットボールの勉強」という目的で見学と会話だけしてウィンターストップを前に帰国。この騒動と共にピッチ上のプレーも悪くなっていたのは決して無関係とは言えないだろう。

 

ガオの一件でワングとフロントの連携が取れていないことは明らかになり、クラブ買取の際に「シナのフットボールの成長のため」という目的を持っていたワングはADOがガオの労働ビザ取得に協力しなかったことと、シナへのオランダ人指導者派遣について具体的な動きが出ないことに不満を表明。ADOに支払う契約だった370万ユーロの支払いを先延ばしにしたことで一気に緊張感が高まることに。このお金が無ければADOは年明け間もなくしてサラリーなどの支払いができなくなる見込みで、ヴィフトが明らかに不快感を表明。12月18日の株主総会への出席を求めていたが、ワングがこれを断ったことで亀裂は決定的になったと報じられ、有力スポンサーの ジョン・ファン・スヴェーデンなどが「シナ人の手からクラブを買い戻すのがベスト」と発言する流れに。

 

だが結局ワングのUnited VansenとADOとの話し合いの末に「文化の違いによる誤解」としてお互いに歩み寄り、送金手続きを開始したとのことで、年内にはその大部分が支払われる見通しとなったことでとりあえずの決着に。だがデン・ハーグ一帯でのワングの信用が最低レベルまで落ちたのは確かであり、シナにいるオーナーとクラブが良好な関係を果たして築いていけるかは大いに疑問だ。